皆様お久しぶりの更新です。
コロナで宝塚歌劇もまたそのファンもそれまでの価値観などが一切変化してしまった現在。
いかがお過ごしでしょうか。
宝塚ホテルも移築後、延期してからの開業のニュースなどがあり再開を待つ声、それとは反対に年内再開は無理なのではと言う声もあります。
また再開にこぎつけたとしてもこれまでとは違うものになるかもしれません。
こればかりは劇団の決定を待つほかありません。
今回は宝塚歌劇の歴史でも重要な舞台のひとつについて書いてみます。
時間のある時などにおつきあいくだされば幸いです。
タカラジェンヌのイメージアイコンとなったオスカル
宝塚歌劇といえば「ベルサイユのばら」といわれた時代がかつてありました。
これには1970年代の少女漫画ブームと反対に映画、テレビ、レジャーの多様化などの台頭で低迷していた宝塚歌劇との絶妙なマッチングがありました。
◆70年代少女漫画ブーム
shareroom.hateblo.jp
70年代にかけて、漫画を読んで育った世代が漫画を描き始め、新感覚派の少女漫画が勢いを持つ。「花の24年組」と呼ばれる昭和24年前後うまれのマンガ家たちの作品である(竹宮恵子、萩尾望都、樹村みのり、大島弓子、山岸涼子など)。
24年組以外の少女漫画では、池田の『ベルサイユのばら』や大和和紀の『はいからさんが通る』など、読者の上限を広げるヒット作を生み出した
さらに私個人としてはベルばらブームとは、おそらく後々までの劇団の宣伝と、メディアなどと連動したイメージ戦略も世間一般への影響として大きかったのではと思っています。
おそらく劇団も最初から想定してのことではないと思われますが、
華麗な軍服を着て剣をふるう男装の麗人オスカルが、そのまま世間からみた「タカラジェンヌの姿(男役)」の非公式イメージアイコンとなったという仮説です。
ビジネスとしてみればイメージアイコンは手塚治虫氏の漫画と連動できればよかったのかもしれません。
しかし氏の漫画内容は悲劇と残酷描写が過剰な部分があり、絵柄としては宝塚歌劇を参考にしていても、宝塚歌劇の志向そのものとは当時から相いれなかったのではと感じますがあくまで推測です。
(かつて上演された「ブラックジャック」とショー「火の鳥」は名作です)
「ベルサイユのばら」はこれまでひんぱんに特に2001年以降は6、7年おきに上演していましたが、2015年以降宝塚歌劇団では上演されていませんし、2020年現在の上演予定にもありません。
seikacat.hatenablog.com
ベルサイユのばらを現在は上演しない理由は何か?
上演されない理由があるとすれば上演されてきた理由もあるはずです。
少女漫画ブームの中で名作は「ベルサイユのばら」以外にも当時からたくさんありました。
「ポーの一族」はそのひとつ。(宝塚歌劇では2018年上演)
少女漫画ブームの特性のひとつ、現在のBLにつらなる少年愛を(それだけではないですが)扱っている原作ですが、舞台版ではその部分は削られ普遍的な愛情の渇望、永遠と不死への苦悩に重きを置いています。
宝塚歌劇ではこのあたりを描くのはまだ限界ということなのかもしれませんが、この話題はまた別の機会にします。
ではなぜ宝塚で当時ベルばらが選ばれたのか
◆宝塚歌劇は一般大衆への訴求ができなければ存続にもつながる危機にあった。
1970年前後、宝塚歌劇団はスターを輩出し、ブロードウェイ・ミュージカルの翻訳上演も行なうなど、新機軸を打ち出してもいたが、テレビの普及や娯楽の多様化の影響を拭い去るには至らず、赤字決算となっていた。平日には客席に閑古鳥が鳴く日も増えており、歌劇団存続を危ぶむ声が歌劇団内部にも広がり始めた[6]。危機感を感じたスタッフ(歌劇団専属演出家も含む)たちには「舞台に主に責任を持つ専属演出家[注 1]をはじめ、ほぼ歌劇団内部の人間のみで舞台作りに携わる旧来からの制作体制では、現在の観客の嗜好に対応するのは困難では」との認識があり、
ベルサイユのばら (宝塚歌劇) - Wikipedia
◆そのため演目は時代のニーズに合ったものでないといけなかった。
◆恋愛だけでなく、フランス革命の場面など歴史物としての壮大なクライマックスがあったため、舞台化しやすかった。
演出家小柳菜穂子先生の言葉より、
「戦争や祭りの場面を入れないと80名近い劇団員を全員大劇場の舞台に出すのは難しい」(意訳)。
おおまかにこの三つがそろっていたからではないでしょうか。
時代のニーズとは、女性が男装して兵士として戦うという絵面の強さです。
「ベルサイユのばら」が漫画原作から受けたのはここにあります。
彼女は男性として育てられたがゆえに、はじめて能動的な物語の主人公となることができそのために苦悩します。
貴族でありながら民衆へ気持ちを動かし、上層部に抵抗し兵を動かします。
男性といいながら誰も彼女を男性としては扱いませんし、彼女の女性のファンたちも同じ。
身分違いの愛も紆余曲折ありつつ超えていきます。
この苦悩はそれまで男性の主人公でないとできなかったものでありかつ、どちらとも結果としては矛盾しいずれは破綻するであろう引き裂かれた稀有な存在です。
死を目前にした生を燃やしているから美しい、というのは新撰組などの幕末物にも似た捉え方かもしれません。
だからこそ観る者にはとても魅力的に映ったのでしょう。
オスカルはもうかつてほど稀有な存在でないのかもしれない
そして現在ではその点がかえってネックとなっているように感じます。
なぜならオスカルは2020年現在では以前ほど難しい稀有な存在ではなくなってしまっているように思えるからです。
言い過ぎを承知ですが海外なら家督を継いだ男女両方からモテるキャリア女性でいそうだなあとか。
(オスカルはセクシャルとしてもマイノリティではないと原作でも当初から表明されています)
そんな当時としては美しい稀有な存在が人々の記憶に強く残るためには、彼女は今宵一夜で愛を得て直後に死ななければいけなかった。
それがこの時代の要請だったとするなら。
本当にそうでないといけなかったのか?と現在の私は思うのです。
稀有な存在が愛を得て、しかもそののちにドレスを着る女性となってももしくはそのままで家庭を持って幸せになるのはあまりにも虫が良すぎるとこの時代はとらえたのでしょうか。
それは現在の視点では観る者の勝手な要求ではないのかと思います。
物語には主人公たちがなにかを成し遂げていく、困難を克服するというプロセスが必要だけれど、宝塚歌劇の至上のテーマである「愛」をより鮮明にするために、「社会的に異質な存在」と「死」をセットにしてわざわざ持ってこないといけない必要はない、と考えます。
これは「ファントム」もそうかな…
それが現在ではこの演目が上演しにくい理由のひとつで、もし再演するなら修正が必要ではないかと思います。
(もちろん上演には劇団の体制や方針転換とかの事情もあるのはわかっています。)
おまけ 現在の舞台の死の割合
ここまで書いてきて直近三年の演目で愛と死の割合はどうなっているかな?と調べてみました。
ネタばれともなっているので注意ですが主人公とヒロイン両方、もしくはどちらかが死ぬ演目をざっと挙げておきます。
2020「赤と黒」
2019「ロックオペラモーツァルト」、「龍の宮物語」、「壬生義士伝」、「アルジェの男」、「群盗」、「アンナ・カレーニナ」
2018「ファントム」、「エリザベート」、「MESSIAH(メサイア」、「凱旋門」、「ウエストサイドストーリー」、「The LAST PARTY」、「誠の群像」、「ドクトル・ジバゴ」、「ひかりふる路」、「不滅の棘」…
古典と呼ばれる作品、もしくは古典を下敷きにした演目ばかりであることが読み取れます。
表現が悪いですが古典は死を容易に描きやすいからでしょう。
(雪組さんが多いのはトップ望海さんの持ち味もあるかも)
おわりに
オスカル達が革命がなった後に生き延びていた(※)としてもそこでみる光景はやはり凄惨なもので、民衆に手にかけられる可能性とか宝塚ファンなら誰もが考えたはず。
※「スカーレット・ピンパーネル」、「ひかりふる路」
「愛」を舞台で大きく、美しく表現するのに「死ななくてはならない」必要が現代の価値観では徐々に小さくなってきていることがわかります。
また「愛を得ること」だけが主題で、1時間40分という芝居を作るのは困難になってきていることも同時に読み取れます。
愛にことさら犠牲は必要なく、そこまでの物語としての道筋に志をつけないといけない。
演出の側もさまざまな配慮が必要で大変 だろう と感じます。
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