以前宝塚のオリジナル作品に比べて原作付きの作品は、観客が観劇時に消費するエネルギー(ここでいうリソース)が多すぎると感じる人がいる、そのために原作付きは避けたいと思う人もいるのではないか?という仮説を基に記事を書いたことがあります。
まだこの頃は公演予定とか呑気に考えてましたね…
ここでいう「リソース」とは、観劇時にファンが使う精神的経済的エネルギーのようなもののことを指します。
リソースをどこに使うか
振り返って現在の宝塚歌劇の公演はコロナ休演を経て、このリソースをさらに細分化して消費しないといけなくなったようです。
ファンは宝塚の観劇のためだけに費やせばよかったリソースを、今度は外部にも振り分けなければならなくなったのではないか。
現実とは別世界へ没入することが魅力のひとつだったスタイルの観劇は変わってしまい自分と劇団関係者の感染の心配と、舞台を続けることへの外部からの意見を目にすることで現時点では出来なくなってしまいました。
そして元に戻るかも未知数です。
今はどこのどのジャンルも同じ理由で没入できるもの自体がない状態なので目立たないですが、私が心配しているのはこの没入スタイルが失われたことに慣れてしまう人が多く出てくることです。
限られたリソースを極限まで宝塚に振り向け使うことで贔屓への愛情を示す。
そんな観劇スタイルだった人にはしばらくつらい日々かもしれません。
もしリソースを使う 価値を見出せなくなったら
そしてもっとつらいのは、先程も書いた今の観劇できないというそのつらさをつらいと感じなくなった時です。
これは私自身が以前に贔屓の退団後に経験していますがしばらくして
「宝塚がなくても思っていたより毎日やっていけそう…?」となった時に、これまであった熱量をすぐに取り戻して舞台を、贔屓を観ることができるかということです。
宝塚に自らのリソースを使う理由が見出せなくなる瞬間です。
贔屓退団と楽しかった時代の終りを経てつらい気持ちが長くありそしてそのつらさもいつしかフラットになり……
何年かしてから宝塚に熱量をもって戻ってきた自身の過去から云わせてもらうと、そうなったら正直しばらくは難しいといわざるをえません。
自分がなぜその贔屓を、その組を、宝塚を好きだったかを自覚していれば比較的回復は早いかも…
あくまで可能性ですが。
(ここで一部宝塚へのいわゆるアンチ変貌する人達がいます。
アンチは自分の中にあるつらさの原因を自分でなく他者のせいにしたい心理から起こるケースがありますが、このあたりはまた深掘りして書きたいです)
ただ宝塚歌劇は入団退団と常に新陳代謝することで、別れの悲しみと出会いをうながししかしその空気感は受け継いできた特徴があります。
なのでファンの離れたり戻ったりはよくあることとして知っているだけでも気持ちが楽になるかなと思います。
舞台はなぜ求められるのか
もうひとつリソースはただ消費するだけでなく還ってくるという話。
舞台鑑賞はオンライン配信では得られないものがありよく生の臨場感などと形容されますが、宝塚は特にその魅力を特化したジャンルといえます。
ショーではスターと目が合ったという気持ちに錯覚でもさせてくれ、また贔屓や思わぬスターから自分へ反応がかえってくることもあるからです。(もちろんそうそうあることではないですが)
リターンが多く確かな宝塚歌劇
それは舞台上の相手からの返信が同じエネルギーつまり私達の使う同じリソースとなって返ってきているといえると思います。
その相互リターンが宝塚を宝塚たらしめていて、劇場からの帰宅時に幸せな気持ちにさせてくれるのです。
このスタイルを築けないうちは現在も複数ある宝塚歌劇に似せたと思われる他のビジネスはそう長くは持たないと考えています。
ファンが観劇時に消費するリソースは、舞台からまた返ってくることで補われる。
もちろん公演内容がよければ感動もできる。
配信ではそのサイクルが叶わず内容も表情も確かにわかるけれどやはりその場にいたかったという気持ちには叶わないのではないでしょうか。
そしてリピート観劇へつながる。
何度も観ることで揶揄されがちな舞台鑑賞、それを求められる間は宝塚歌劇はまだスタイルを変えつつ楽しめると信じています。