少し前に話題になった「推しを人質にとられる」という文言。
数年前から存在していましたがかの「プ…」の舞台に知名度の高い俳優が出演することでネット上で嘆くファンが散見されました。
今回はこれについて考えてみようと思います。
(演目名は検索避けで表記)
推しを人質にとられるとは?
そもそも宝塚歌劇など舞台の演目の内容やその志向は、クォリティが残念ながら低くても観た人にしかダメージを与えないために世間には広がりにくく、もし観客からブーイングが出るような、社会的にみて擁護しにくい演目はあったとしても影響力はファンや関係者にとどまるとこれまでは考えられてきたように感じます。
だからファンは次の演目に期待することで今の演目はストーリーは横に置き、贔屓の誠実なお仕事だけに集中することで我慢できていてある意味温かく放置されていたともいえます。
先述した「プ…」の問題点は内容そのものというわけではなく、主宰者の持つ特性にあります。
これまで人の感情を逆撫でし炎上させて大きく注目を集め、費用やチケットをオンラインサロンのメンバーに売り捌くなどがマルチ商法に近いとされて批判された経緯があり舞台版もそうなるとみられているため出演する役者のファンは嘆いたのです。
宝塚歌劇でも時代的に再演は難しいだろうなという演目はまあ昔のものを中心にあります。
(女性が殺されるか犠牲になることで感動と興奮を呼ぶものなど)
(最近柴田先生作品を観た10代の方の感想で時代とかいっても不倫は不倫じゃんというのをみて、現在はそういわれるんだなとハッとしたり。)
「推しが人質にとられる」とは、ファンのそんな意に沿わない演目や社会的には納得しがたいお仕事をしてしまった時の感情を表したもの。
それでも推しであるために観劇を余儀なくされることです。
でもそれが果たしてベストのファンの観劇スタイルなのか。
推しは人質だからファンはそのお仕事に嫌々対価を支払うしか選択肢がないのか。
しかしそれは気づかないうちにファン自身の心に影を落としていくことにならないかと危惧します。
推しの選んだ仕事を選ばないという選択
贔屓自身は確かにいつでもどんな内容の仕事であってもファンにはついてきてほしいものでしょう。
けれどファンと贔屓は対等ではなくともお互いの持つ志向と意見をぶつけるコミュニケーションをとれるような適度な距離とつながりが必要だと思っていて、ただ遠くからみつめてついていくだけではないはずです。
贔屓は決して人質などではなくひとりの大人としてその仕事を選択していることを肝に命じてファンは観ない、贔屓のお仕事を消費しないという選択がベストかなと。
消去法ではありますが…
これは贔屓へのスタンス的に昔の自分への戒めでもあります…