最初に
今回はタイトル通り、少し難しい話になります。
日頃から宝塚歌劇に対して感じていたことを、今書いておきたいとふと思ったからです。
これはわたしが宝塚歌劇を好きになった10年以上前から現在進行で思考していることであって、また変化したり、後になって読み返してもみるととんでもない誤ちをおかしているかもしれません。
けれどそろそろ誰もが見ることができる場所に書き留めておいていい時期なのではと考えています。
そして同じようなことを考えている人に少しでも、この記事が思考のたたき台になればと思います。
- 最初に
- ポリコレとは?
- 結論から
- 宝塚歌劇が関わったポリコレ問題
- 「宝塚歌劇は規定されない世界」と規定してみる
- 劇団が明確に規定しないメリットとは?
- 規定しないことでの不安要素とは
- ファンはどう感じているか
- あとがきとまとめ
ポリコレとは?
1980年代に多民族国家アメリカ合衆国で始まった、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的な観点から見て正しい用語を使う」という意味で使われる言い回しである。
ポリティカル・コレクトネスは差別是正活動の一部として、英語だけでなく日本語など英語以外の言語にも持ち込まれ、一部の表現の置き換え・言い換えにつながった。
政治的立場では区別する以外の目的で、容姿・職業・性別・文化・人種・民族・信仰・思想・性癖・健康(障害)・年齢・婚姻状況などによる社会的な差別・偏見が含まれていない、公正・公平な表現・用語を使うよう推奨している。
適切な表現が存在しない場合は、新語が造られることもある。
現在では言葉だけでなく、世界的にみて偏りなくフラットな価値観で内容を提供できているかという意味合いでも使われています。
結論から
まず最初に。
タイトルにしたこのポリコレ、宝塚歌劇に世界的な価値観の共有がいるのか?すでにあるのか?という問いですが。
わたしが個人的に現在出した結論から先に書いてしまうと、
「現在の宝塚歌劇には明確なポリコレをつくること、つくられていることをことさらに外部に明示して、そして拡散する必要はない。」
です。
「ただし、なんらかの状況の変化によって歌劇団にポリコレがあるのか?と外部から問われるような事態になった場合、明確に応えられるようにしておかないといけない。」
とも付け加えておきます。
これまでには想定していなかったことを思いもかけないきっかけとして世論が沸騰し、宝塚歌劇に批判が及ぶ可能性があるためです。
そのあくまで予防策としてポリコレを踏まえて反論できるような素地をつくっておく必要が今の時代にはあると感じています。
宝塚歌劇が関わったポリコレ問題
たとえば少し前に少しだけネット上で炎上したこちらの案件。
わたし自身はレビュー「ノバ・ボサ・ノバ」に代表されるような黒塗りメイクを嘲笑のネタとするか、リスペクトの対象としてとらえるかの単なる切り分けの違いととりましたがそれまでなにも疑問を持たずに行っていたことが一律に批判されること、宝塚歌劇へもその批判が及びかねない怖さをこの一件で知りました。
ポリコレ的価値観は推し進めることで、既存の価値観で築き上げた楽しさを否定することにつながってしまうことがあり批判を生み出すことが往々にしてあります。
ディズニーがわかりやすい例です。
「宝塚歌劇は規定されない世界」と規定してみる
なぜわたしが上記のような結論を出すに至ったかとというと、宝塚歌劇とは「明確に規定しないたくさんのことの積み重なりでできていて」、「その積み重なりが多様な捉え方」をファンにさせることができていて、
結果、これまで高い人気を維持し相乗効果を生み出していると考えているからです。
劇団が明確に規定しないメリットとは?
実は宝塚歌劇団はいくつかの矛盾を抱えて今日まで存続しています。
たとえば
生徒といいながら社会人、ショービジネスの担い手とするシステム。
日舞など日本の伝統芸を維持しつつ海外ミュージカル、少女漫画からスタートした2.5次元の舞台化。
国内における舞台のいち早い映像ソフト化。
専門チャンネルでのコンテンツ化。
肖像権などに(今のところ)口を出さない事。
いわば宝塚歌劇はなんでもできる場になりつつあり、そして公式はどうしてそのようにしたという理由を説明したことはこれまでほとんどありません。
劇団が公式に規定しないことでファンは物語にもショーにも、劇団の在り方にもそれぞれ独自の解釈をすることが可能になっているのです。
それは人事の不透明化にも作用しています。
なぜその人事が行われたのかを、本人も劇団も最後まで口にすることはありません。
ファンにとっては不本意な人事であったとしても、何も言わない劇団が仮想敵のようなまたクッションのような役割を果たすことで本人に批判がいかないような仕組みになっているともとれます。
とはいえおおむね劇団が明確に規定しないことは宝塚歌劇において、メリットとして機能しているようです。
規定しないことでの不安要素とは
そもそも15歳から18歳の女性のみしか入学入団を認められない劇団というのは、厳密にいうとポリコレに背いているともいわれかねません。
2016年にNYで上演された宝塚OGが出演したミュージカル「シカゴ」において、
なぜ女性がわざわざ男性を演じる必要が、男役というものが商業演劇として成立しているのかを海外のインタビュアーに質問された際に十二分には説明しきれなかったことからも、その危うさがわかります。
(すみません当時のこの質問の記事を探しましたがソースがみつかりませんでした)
このような問いに、「だってその方が夢がみれるから」というのは昔からあるアンサーですが、その答えではおそらく海外では通用しません。
必要がないのならそこに需要もないということです。
欧州と日本およびアジア圏の美意識に差異があること。
また海外ではしばしばいわれるセクシュアリティに直結する問題として男役をとらえることを、宝塚ファンはよしとしないことも要因としてあります。
ファンはどう感じているか
わたしは紆余曲折あって離れた時期があるなどしましたが、宝塚歌劇を愛しています。
さらにポリコレは全面的に正しいから誰もが諸手を挙げて導入すべき、とはいえない状況にあるとも感じています。
しかし個々の価値観のみで独自のエンタメを維持することが難しくなった現在では、無視しては取り残される。
ファンの多くがそうした意識を持たないまま、(炎上などによって)なしくずし的にポリコレを導入するようなことになっては反発を生むことになるでしょう。
結果「明確に規定しないことでつながっていた」ファンの間、そして劇団とファンの間で断絶をつくり、そのエンタテイメントの勢いは落ちてしまうことにもなりかねません。
それだけは避けてほしいと願っています。
あとがきとまとめ
ポリコレ的価値観は、なにも明確に規定しないことで成立している宝塚歌劇を変えてしまうかもしれない。
それでも現状では規定しておくべき。
その痛みにファンがどう対処できるか。
おまえが心配するほどじゃない、歌劇団はちゃんとしているから大丈夫。
それをいったらおまえの記事は違反してない?とか言われるかなとグルグル頭を廻っていますが、今回はこれくらいで。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。
またその気になったらこのあたりの話題は掘り下げます。