宝塚歌劇が海外でも通用する? その前に立ち止まって考えたい視点
宝塚歌劇が海外進出する前に問うべき、ジェンダー表現・ポリコレ・歴史認識の問題とは?その魅力と課題を考察。
◆宝塚歌劇団は、その高い完成度、美学、技術、そして独自の世界観で、長年にわたり日本国内で多くのファンを魅了してきました。
「宝塚は世界に誇れる日本の文化」と語る声も多く、近年は海外進出への期待も高まっています。
しかし、果たしてそのまま“世界に見つかって”しまってよいのでしょうか?
この記事では、宝塚の芸術性を否定するわけではありません。
その美しさ、緻密な舞台づくり、多様な才能が生み出す舞台芸術は確かに魅力的です。
ただし、それと同時に──海外目線で見たときに、ジェンダー表現や異性愛至上主義、歴史の描き方に関する問題が内包されていることにも、目を向ける必要があるのではないでしょうか。
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◆「男役の美学」に潜むグロテスクさ──男性の理想を女性に演じさせる構造
宝塚の大きな魅力のひとつが、「男役」の存在です。
凛々しく堂々とした男役は、女性ファンの憧れの的ともなっています。
しかし冷静に考えてみると、男の脚本家や演出家が、理想化された“男性像”を女性に演じさせるという構造には、どこかグロテスクさが漂います。
その男役の姿は、決してリアルな男性像ではなく、時に支配的であり、時に女性にとって都合の良い“美化された男性性”です。
それを女性が演じることで、性の境界が曖昧になったように見えつつも、結局は「男による男のための美学」が温存されているとも言えるのです。
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◆同性愛の表現が“ギャグ”扱いされる違和感
もう一つ、宝塚における表現の課題として、同性愛に対する距離の取り方があります。
一部の舞台では、男性同士の関係が仄めかされる場面もありますが、多くの場合、それはシリアスな恋愛としては扱われず、“友情”か“ギャグ”にされてしまう傾向があります。
この点について、LGBTQ+の視点から見ると、異性愛が当然であるという「異性愛至上主義」が根底にあり、同性愛的な要素はあくまでファンタジーか笑いの対象としてしか存在できないのだと感じざるを得ません。
こうした表現は、現代のポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の観点から見ると、批判される可能性が非常に高いでしょう。
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◆他国の歴史や文化への無理解──過去作に見る「無意識の偏見」
また、宝塚は「海外の物語」も多く舞台化していますが、その中には**歴史的背景や文化的文脈を無視した“エキゾチズム”**に満ちた作品も存在します。
ヨーロッパ貴族の恋愛や、中東、アジア、アフリカなどの異国情緒を題材にした舞台では、他国の文化がステレオタイプに消費される傾向が強く見られます。
これらの表現は、国内の観客にとっては違和感がないかもしれませんが、海外の視点から見ると、「文化的盗用(カルチュラル・アプロプリエーション)」と受け取られる可能性が十分にあります。
宝塚がもし今後、海外展開を本格的に進めるのであれば、こうした文化的無理解にどう向き合っていくのかが問われることになるでしょう。
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“見つかる”前に、自らを見つめ直すタイミング
SNSなどでは、「宝塚が海外に見つかってしまったら叩かれる」と危惧する声も少なくありません。
これは単なる炎上を恐れるというより、「私たちの大切な文化が、今のままで本当に“世界に出せるもの”なのか?」という素朴な問いかけではないでしょうか。
もちろん、宝塚が時代に合わせて少しずつ変化してきたことは事実です。
しかし、表現の根幹にある“価値観”を問い直すには、まだ十分なアップデートがなされているとは言いがたいのです。
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まとめ:宝塚の未来のために
宝塚歌劇団は、日本の文化の中でも非常にユニークな存在であり、その完成度や美意識には見るべき価値があります。
しかし、その魅力を「世界に誇る」と語る前に、一度立ち止まって、内包する価値観の再点検を行うことが、むしろ宝塚の未来を守ることに繋がるのではないでしょうか。
美しさの裏にある「見えない構造」──それに気づき、語り合うことからしか、本当の意味で“海外に通用する舞台”は生まれないと思うのです。