小池修一郎先生は、知っている方には言わずもがなですが宝塚のみならず現在では日本のミュージカル界でも大きな存在を示している演出家です
小池修一郎先生の軌跡
初期の作品は、名作を独自にアレンジしたものが多く、個人的には演出家大劇場デビュー作である月組「天使の微笑 悪魔の涙」が好きです。
そこに原典の悲劇とは違う視点で彼等に幸福をもたせるあらすじとなっています。
大劇場作品の前にバウホールでの「ヴァレンチノ」(1986年)があります。
こちらも2011年に宙組で再演された名作です。
ヴァレンチノの再演時に確か先生は、「純粋な魂が栄光を掴むが挫折。再生を目指すが志半ばで肉体は滅ぶしかしその想いは残る…これは私の生涯のテーマなのである」と仰っていましたが確かに初期の作品群「華麗なるギャツビー」、「PUCK」から宝塚での最新作である「once upon a time in America」まで一貫してそのカラーが色濃く出ています。
あえて最後まで貧しいものの側に立ったり(「アポロンの迷宮」)、栄光をつかむが俗世的な幸せを拒否するなど
その作品の気風は先生個人の理想や願いもこめられたものだったのかもしれません。
デビュー作はその演出家の全てを表現してしまうという言葉がありますが、小池先生もそうだと思います。
私が気になるのは、この願いは果たして先生の中で昇華されたのか?という疑問です。
まあなんというか余計なお世話なのは承知です。
小池修一郎先生の転換点
先生の演出家としての転換点と誰しもが考えるのが、かの「エリザベート」です。
こちらもそれまでの歌劇とは主演が死という不吉とされているとのであることや、娘役がタイトルロールであること、
ほとんど歌で構成されていることなど現在では普通になっていることですが、一線を画した新しい挑戦として見出された作品でした。
この作品で先生は宝塚歌劇演出家の一人にとどまらず知名度を上げることになり外部演出への足掛かりともなりました。
小池先生の気風は変わったのか?
そしてそのために海外ミュージカルや外部作品が増え、先生オリジナル演出の作品は少なくなっていきます。
その作品のように純粋な魂たちが困難の中消え失せても、先生自体はこの生きている社会で地位を得、むしろ作品の主人公とは真逆の栄光の場所に辿り着きました。
それではそこから描かれる主人公たちはどう変わったのか。
「死」という世界が開かれたのです。
死まで行かないとそこまでしないと生きた者には影響を及ぼさないのか。
先生の願いは常に変わらないまま「死」という別の世界へと旅立つ。
それは少し複雑な心境かもしれないと思うのです。
先生の作品に触れるといつも思う些細なことでした。