宝塚歌劇は一般的なイメージとして「清く正しく美しく」という前提があり、これは特にファンではない層にも浸透しているようです。
しかし実際に宝塚のファンになり観劇を続けていると、物語をつくる上で悪役を必要とするのとあいまってすべてが綺麗で善きものかというと、そんなことはないことがわかってきます。
その例としてひとつの言葉をピックアップしていきます。
2017年後半に上演された宙組公演『神々の土地』。
ロシア革命直前のロマノフ王朝の動乱を描いた、演出家オリジナル作品でした。
この作品の概要が公式サイトにて発表された当初、こんな文言が付けられていました。
※スマホ画像クオリティなのはすみません…
偏見・差別的に使用される「ジプシー」とは?
ジプシーとは、北インド発祥とされる少数移動民族のことをいいます。
その歴史的詳細は未だはっきりとはしないようですが、欧州を中心に世界中に移動していたとみられ、英語圏でジプシー、フランスではジタン、ドイツではツィゴイネル、スペインではヒタノなどと呼ばれていて、如何に各国で彼らがその土地に浸透していたかがわかります。
現在ではロマという表記が一般的とされていて、険しい道のりながら定住政策も進んでいます。
この記事でもジプシーという表記にあえてしています。
ちなみにこの『神々の土地』における公式での文言での「ジプシー」はあくまで「娯楽」の概念のひとつという表記で、人間を指してないことを前提としています。
これは「ジプシー」という言葉に今日では差別軽蔑的意味が込められているとされているからです。
元々定住せず独自の文化と言葉を維持し続けた彼らは、酷い迫害と差別を受けてきました。
宝塚歌劇における「ジプシー]
実は宝塚歌劇において、昔から芝居でもショーでもジプシーという素材は多く使われてきました。
虐げられ、一般的な社会生活から切り離されある意味自由に生きているようにみえるジプシーは、オペラなど多くの他の物語と同じように宝塚の芝居でも生まれながらに悲劇と野生の香りと妖しい雰囲気をかもしだす存在として、
(『神々の土地』でも、ラストへつながる悲劇の発火点としてロシア軍の将校とジプシー女性の恋愛が描かれています。)
そしてショーでは、フラメンコなどの熱情的なダンスシーンなどでそのルーツを感じとることができます。
少し思い出すだけでも『うたかたの恋』、『激情』、『炎にくちづけを』、『ジプシー男爵』など宝塚がジプシーという道具立てで野性的で神秘的な女性を描くことが多くあります。
しかしそれは強い肉感的な女性を描くために、そして物語に艶めいた彩りと盛り上がりを加えるために、わざわざジプシーという道具立てが必要なのかも?と思うこともあるのですが…
ジプシーという魅力
何故そんなに宝塚歌劇と「ジプシー」は親和性が高いのか
黒髪褐色の肌、他の誰にも真似ができない魅力的で野性的な踊りと音楽、文字を持たずに占いと祭礼を行い、馬と鍛冶で生計を立てる生活様式。
ここではない場所、自由にどこにでも行ける、心のままに美しい音楽を奏でられるという稀有な才能、都合の良い幻想としてもそれを持たない私たちには現代でもなお強い憧れをともなうものだからなのかもしれません。
ジプシーと音楽との関わりの逸話は多くありますが、私が中でも好きなのがこのエピソードです。
他作品での例も
他の作品からもうひとつ。
1983年初演『うたかたの恋』は、宝塚の名作とされる芝居で何度も再演を繰り返しています。
この芝居の中盤あたりで、ロシアから来たというジプシー女性(最新の表記では「ボヘミアの女」)マリンカが主人公ルドルフ皇太子に、彼が抱える重圧へ何かを投げかけるように歌を聴かせる場面があります。
この曲、タイトルは「身も心も」ですがサブタイトルがあります。
前回2013年宙組全国ツアー公演までは「身も心も(ZIGEUNERWEISEN)」と表記されていましたが、2018年星組中日劇場公演版では「身も心も(Zwei Gitarren)」となっています。
ZIGEUNERWEISEN(ジプシーの旋律)からZwei Gitarren(二本のギター)へ。
これも「ジプシー」表記と同じ配慮なのでしょうか。
宝塚歌劇では他に演出家大野拓史先生の作品群には、ジプシーにとどまらず差別される側、タブーとされた人達が多く登場します。
このあたりもいずれ詳細に書いてみたいと思っています。
タブーは人によって生まれ、時として物語をつくり言葉とともに移り変わり消えて、また生まれる。
宝塚歌劇が人間を描く限り当然だとも思います。
なぜその言葉がタブーになるのか?
タブーならどう言い換えるべき?など、
詳しい解説と最新の情報がわかります↓